【作家・吉田龍司の歴史に学ぶビジネス術】中世の西洋に「日本ブーム」を仕掛けた男

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 イエズス会の日本でのキリスト教布教のキーワードは、他国の文化を尊重し、現地の流儀に沿った対応をする「適応主義」だった。
 適応主義は現代にも息づく経営戦略でもあり、米経営学者プラハラードが2005年に著した『ネクスト・マーケット』に興味深い記述がある。それは世界最大の洗剤・化粧品メーカーP&Gがインドに進出したときの話だ。
 P&Gはシャンプーの販売ターゲットをBOP(bottom of the pyramid)と呼ばれる層に定めた。低所得だが最も人口が多い層であり、全世界で約50億人いるとされる貧困層である。BOPは日当で生活している人々であり、ボトルタイプのようなシャンプーを買う習慣がなかった。そこでP&Gはその日に使える分だけの、使い切りパックのシャンプーを開発・販売し、大ヒットを飛ばしたのである。
 製品・サービスをそのまま持ち込むのではなく、いかにローカライズし「適応」させるかがグローバルビジネスの成功のカギといえる。
 イエズス会のアレッサンドロ・ヴァリニャーノ(1539~1606)はこうした感覚に秀でた、天才的マネジャーであった。

■ヴァリニャーノの横顔

 ヴァリニャーノはイタリアの人で、当時スペイン支配下にあったナポリ王国キエティ(現イタリア・アブルッツォ州)の名門貴族の家に生まれた。若き日は法学生だったが、傷害事件を起こすなどの過ちもあった。彼自身、この罪を生涯悔い、死ぬ間際まで毎日鞭打ちの苦業を行い、「はなはだ重大な罪」と周囲に繰り返し述べていたという。まったくの聖人君子でないわけで、逆に親近感を覚えるエピソードである。
 27歳でローマのイエズス会に入会し、哲学、物理学、神学などを学んだ。ザビエルもそうだったが、敬虔な会士であり、学者さんでもあったのだ。
 やがて教団内で声望を高め、東インド巡察師という大役に任じられる。当時の東インド管区とはインドだけでなく、東南アジア、日本を含む東アジアに至る、イエズス会最大の管区である。巡察師は管区を調査する役職だが、通信手段も限られていた当時、イエズス会トップの総会長の名代として、各地の布教長に対する指導権限をもった。
 1574年にヴァリニャーノは部下を引き連れてリスボンを旅立ち、東インド巡察の途についた。インドやマカオで精力的に活動し、中国への布教の道筋もつけるなど数多くの功績を挙げている。
 一方、当時の日本の布教長はカブラルという人で、主に九州で布教活動をしていた。カブラルも学識高い人物だったが、ヨーロッパ式にこだわるあまり、日本人を低く見る傾向があった。彼は日本人が傲慢、貪欲、偽善的であると判断し、大名たちが帰依するのは南蛮貿易の利権のため、一般庶民の入信も物質的な施しを得るため、という考えに至る。実際、日本のキリスト教受容にこうした側面があったことは否めない。
 カブラルの口癖は「結局のところ、おまえたちは日本人である」で、日本語を学ぼうともせず、日本人を教育して司祭に導こうともしなかった。
 こうしたカブラルの態度に日本人信徒も絶望し、九州の教団は分裂の危機を迎えていた。なお、畿内では有名なルイス・フロイスの布教に加え、織田信長や高山右近らの保護があり、対照的に信徒を順調に増やしていた頃である。

■日本で「適応主義」を徹底させる

 天正7年(1579)7月25日、ヴァリニャーノは口ノ津(長崎県南島原市)に到着し、来日の第一歩を記した。彼の日本の第一印象は「全く異なった世界」に来た、というものだった。しばらく肥前に滞在して日本を調査し、「この国の事情を考えると溜息が出、悲嘆し、大きな不安か襲って来るのを感じる」と記している。軽々しく人を殺し、性的に不道徳であり、偽善に満ちた日本人の特性を実感したのである。
 だが最終的には「日本人が、優雅で礼儀正しく秀でた天性と理解力を有し、以上の点で我等を凌ぐほど優秀であることは否定できないところである」という結論に至る。カブラルとは異なり、ヴァリニャーノは日本人への信頼と謙遜の心を持っていたのである。
 ヴァリニャーノは「ヨーロッパから当地へやって来る者たちは全くの新参者に等しいので、食事、着座、(日本人との)会話の仕方、服の着方、礼儀作法その他、日本人が行うあらゆる事柄を、子供のようになって、(最初から)学ばねばならない」という布教方針を定め、カブラルを更迭して、日本イエズス会の改革に乗り出す。
 まず宣教師たちには日本の習慣、日本語を学ぶことを厳命した。また、日本人修道士たちにポルトガル語・ラテン語習得を学ばせ、さらに日本人修道士をヨーロッパ人修道士と同様に待遇・養成して司祭とした。ヴァリニャーノは適応主義の大きな目的として、日本人の手で布教の成果を挙げさせることを目指したのである。
 また、信長ら権力者には南蛮貿易がもたらす高価な品々を贈り、援助を得た。ザビエルは「日本ではまず何がしかの物を与えずには何事も獲得できない」と述べていたように、ヴァリニャーノもこうした現実主義なくして布教が進まないことを認識していたのだ。現地の流儀にはできるだけ従うべし、ということである。
 またヴァリニャーノはキリシタン大名の大村純忠から教団への長崎の譲与を打診され、迷った末、この申し出を受けた。当時の長崎は南蛮貿易で莫大な利権があったのだが、慢性的な財政難に苦しむ教団の事情を鑑みて、当時タブーの土地取得も決意したのである。教会、神学校の建設などとにかく布教にはカネがかかったのである。

■資金調達が目的だった「天正遣欧少年使節」

 一連の改革により、日本のキリスト教界は再び活性化した。さらにヴァリニャーノは天正10年(1582)に離日する際、奇抜なプロジェクトを立案した。有名な「天正遣欧少年使節」である。大友・大村・有馬のキリシタン大名の名代として、伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアンの4人の少年を伴い、ヨーロッパに派遣しようというプロジェクトである。
 彼の狙いは一言でいって資金調達である。日本の布教の成果を見せることで、ローマ教皇、ポルトガル国王の資金援助を増額してもらおうとしたのだ。
 この企画は当たり、少年使節が訪問したヨーロッパ各地で「日本ブーム」が起こり、イエズス会の名声も高まった。期待通り教皇・国王側は支給の追加に応じている。
 また少年使節を伴って再来日した際には、活字印刷機も伝来させ、わが国で最初の活版印刷も始めている(キリシタン版の刊行)。これも布教に大いに貢献することとなった。
 資金調達から、企画立案、PRまで、八面六臂の活躍をしたヴァリニャーノ。ビジネス的には、マーケットをいかに作り、いかに育てるかを教えてくれる敏腕マネジャーだったといえる。適応主義は成功のためのあらゆる可能性を探る道でもある。

(参考文献・「東インド巡察記」ヴァリニャーノ、高橋裕史訳、「日本巡察記」ヴァリニャーノ、松田毅一訳、「ネクスト・マーケット」C.K.プラハラード、スカイライト コンサルティング訳)

(作家=吉田龍司 『毛利元就』、『戦国城事典』(新紀元社)、『信長のM&A、黒田官兵衛のビッグデータ』(宝島社)など著書多数)

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