【作家・吉田龍司の歴史に学ぶビジネス術】真田丸の秘密!幸村父の『究極の設備投資』とは
- 2016/4/19 10:41
- 株式投資News
<写真=真田氏で有名な上田城(長野県上田市)。ただし現在の城址は真田氏時代のものでなく、江戸前期に築造されたもの>
■信濃上田城を造ったのは真田氏ではない?
NHK大河ドラマ『真田丸』のあるシーンを観ていて『アレっ?』と思った歴史ファンは少なくないと思う。真田昌幸(信繁の父。信繁は幸村の名で知られる)の本拠地として有名な上田城を徳川家康が「築城してあげる」場面だ。ドラマでは徳川方に属していた昌幸の要請で仕方なく造った、と描かれている。その後、昌幸に裏切られた家康は激怒して上田城攻めに踏み切るが、みじめな敗北を喫してしまう。
これまでの通説では上田城を築いたのは昌幸であり、家康の介入など考えられていなかった。
ドラマの筋立ては一見、盛り上げるための脚色とも思える。しかし実はこれには立派な裏付けがあるのだ。近年に元上田市立博物館長の寺島隆史氏が、築城は家康(および上杉景勝)によって行われた、という『新説』を唱え、学界でもかなりの支持を集めるようになったのである。寺島氏の論は当時の家康の書状などを丹念に研究したもので、かなりの説得力を持つ内容である。ドラマもこの説を採用したのだろう。
歴史学とは一夜にして常識が覆る世界であるが、上田城の一件はその好例だ。
上田は徳川・上杉の国境付近、『境目』に当たる重要な土地であり、そもそも上田城は対上杉をにらんだ徳川方の最前線拠点として築かれた。つまり真田昌幸の居城を目的とした築城ではなかったわけだ。恐らく昌幸は縄張(城の設計)などを行ったと見られるが、立場としては城主でなく、城代だったと考えられる。
昌幸は家康から上杉景勝陣営に鞍替えしたあと、今度は上杉勢に上田城の増築普請をやってもらっている。今度は上杉にとって上田城が対徳川の最前線拠点となったわけだから、景勝も了解せざるを得なかったのだろう。
以後、関ヶ原の戦いまで上田城は昌幸の本拠となった。要するに、昌幸は家康と景勝の力を利用して自分の城を築いたことになる。
■大企業を手玉にとった中小零細・真田家
戦国時代の代表的な設備投資は「築城」である。まず城地の選定に始まり、縄張を行い、「普請」と呼ばれる土木工事に入る。普請では掘や石垣、土塁といった防御設備を構築する。続いて「作事」と呼ばれる大工仕事が行われる。これはおなじみの天守初め、御殿や櫓を築く建築工事だ。
城といってもピンキリがあるのだが、とにかくべらぼうな工費を要すことはいうまでもない。
大林組は豊臣氏時代の大坂城の工費を算出している。それによれば土木工事で560億円、建築工事で221億円、計781億円という。この算出はあくまでクレーンやブルドーザーを使った現代技術を利用したケースのものであり、当時の人海戦術工法のコストとなると想像もつかない。
上田城は大坂城とは比べものにならない小さな城だったが、それでも当時信濃の小大名だった昌幸には手に余るプロジェクトだったであろう。これは想像だが、建築工事は大したものではなかったにせよ、土木工事だけでも数十億円は下らなかったのではないか。
戦国時代の軍事同盟は今でいうとアライアンス、事業提携である。要するに昌幸は築城費用の大半を提携先に押しつけたわけだ。真田は徳川や上杉のような大企業ではない中小零細だったが、「境目の地を守る」という名目をうまく利用して、豪華な本社工場を建設したのである。これぞ弱者の知恵だろう。
上田城で合戦は都合2回行われた。一度目は7000、二度目は3万8000という徳川の大軍を昌幸は小勢で迎撃し、見事に打ち破っている。お粗末な城ではこうはいかない。相当に立派な近世城郭だったのであろう。上田城があったから真田は過酷なサバイバル競争を乗り切れたわけだ。
■恨み重なる「真田本社」をこの世から消した家康
関ヶ原の戦いで西軍についた昌幸は降伏を余儀なくされ、九度山(和歌山県九度山町)送りとなる。東軍についていた子の信幸(信繁の兄)は家康に昌幸の遺領を与えられ、真田の家名は残った。一説に東西どちらが勝っても真田が続くよう狙った昌幸の作戦ともいうが、真相は不明である。
ただし、家康は上田城の存在は許さなかった。掘も建物も徹底的に破壊したのである。今に残る城址はその後に入封した仙石氏が新たに設計し直して、築城したものである。だから昌幸時代の城がどんなものであったかは無論、実は正確な位置さえもよくわかっていない。
以前、私は上田城をこの世から抹殺した家康のやり方はあまりに大人げない、子供じみた振る舞いと考えていた。そのまま利用すればいいものを、跡形もなく壊してしまうのは頭のいい人のやることではないからである。
しかし、”新説”を踏まえると、どうやらかなり同情すべき話であることがわかってきた。やはり歴史とは血の通った人々の記録であり、そこには必ず人間の感情が渦巻いているものなのである。
(参考資料・寺島隆史「上田築城の開始をめぐる真田・徳川・上杉の動静」『信濃』60巻12号・信濃史学会)
(作家=吉田龍司 『毛利元就』、『戦国城事典』(新紀元社)、『信長のM&A、黒田官兵衛のビッグデータ』(宝島社)など著書多数)