【作家吉田龍司の歴史に学ぶビジネス術】揺れる三菱、不正の元祖は何とあの英雄!?
- 2016/5/17 10:22
- 株式投資News
■『三菱グループの天皇』の放言に批判集中
燃費データ不正問題の発覚で名門・三菱自動車が揺れている。日産自動車傘下入りという衝撃的な展開は多くの市場関係者を驚かせた。
ところで騒動に火に油を注いでいたのが、「三菱グルーブの天皇」と呼ばれる相川賢太郎氏(元三菱重工会長・社長)だった。『週刊新潮』誌上で「あれ(公表燃費)はコマーシャルだから。効くのか効かないのか分からないけれど、多少効けばいいというような気持ちが薬屋にあるのと同じ」、「買う方もね、あんなもの(公表燃費)を頼りに買ってるんじゃないわけ」など、身も蓋もない発言をしたのである。
これに「三菱にモラルはないのか」、「創業の精神はどこへいった」といった批判が噴出したが……さてどうだろう。いい意味でも悪い意味でも、大三菱とはもともとこういう会社ではなかったのか。
三菱を語る上で欠かせない人物、それはもちろん創業者の岩崎弥太郎だ。弥太郎は幕末の人、土佐安芸郡の出身である。武士ではあったが、家は「地下(じげ)浪人」と呼ばれる最下層階級だった。弥太郎は土佐藩重臣の後藤象二郎にその才覚を見出され、慶応2年(1866)に藩の商館「開成館」にめでたく就職。そして当時貿易の中心地だった長崎に赴いて、開成館の出先機関である「土佐商会」の責任者に抜擢された。ここで弥太郎は同じ土佐藩出身の浪人と運命的な出会いを果たす。坂本龍馬である。
当時の龍馬は薩長同盟の仕掛け人として歴史上見逃せない活躍をする一方、大きな苦境を迎えていた。元治元年(1864)にいわゆる”日本初の株式会社”である「亀山社中」を長崎にて開業したが、経営は暗礁に乗り上げていた。亀山社中は、『平時は海運業、戦時は海軍』をうたい文句としていたが、肝心の商船が沈没するなど不運が重なって、解散せざるを得ない状況に追い込まれていたのだ。
そこに手をさしのべたのが後藤象二郎だった。後藤は龍馬と協力して社中と土佐商会の融合を図り、社中を土佐藩の外郭団体として組織替えする。これが「海援隊」だ。後藤としても社中の航海技術、豊富な龍馬の人脈をぜひ活用したかったわけである。
龍馬は海援隊の隊長となり、弥太郎は土佐藩の命で隊の経理を担当することになった。後藤や龍馬が国事で忙しいので、隊の財政は弥太郎が一手に切り盛りするようになったのである。
海援隊は海運を始めるため、後藤の仲介で当時伊予大洲藩が所有していた蒸気船「いろは丸」の借り受けに成功した。なおレンタル料金は一航海につき500両だった。日銀高知支店調べでは当時の1両は18~22万円としているので、約1億円の計算となる。かなり高い印象があるがあくまで目安としておこう。もちろんスポンサーは土佐藩である。
■いろは丸事件であった龍馬の『虚偽申告』!
慶応3年(1867)4月19日、龍馬と隊士を乗せたいろは丸は初航海として長崎を出港し、大坂へ向かった。ところが4日目の23日深夜、鞆の浦(広島県福山市)の沖合を航海中、紀州藩船の明光丸と衝突事故を起こしてしまった。明光丸はいろは丸を圧する大型船だったので、いろは丸は大破。龍馬らは救助されたものの、積荷はすべて沈んだ。これが「いろは丸事件」だ。龍馬は明光丸が寄港した長崎で紀州藩への賠償運動を始めたが、交渉は難航した。
龍馬は有利な条件を引き出すため、いくつかの策を弄したと見られる。一つは世論操作だ。交渉地の長崎で「船を沈めたその償いは金を取らずに国を取る」という歌を巷に流行らせ、人々に「非は紀州藩にあり」とアピールしたのである。
二つ目が限りなく黒と見られる積荷の”不正申告”である。衝突時、海援隊士は「積荷は米と砂糖であまり多くない」と証言していたが、後になって龍馬がこれを打ち消し、「小銃など武器(3万9千両相当)も積んでいた」と主張し始めたのである。
いろは丸事件は龍馬が「万国公法」(欧米の法規)を駆使した案件とされているが、事実は異なる。国際航法に従えばいろは丸にはランプの不点灯、航行のルール無視(右旋回の怠り)などの失策も非常に多かったのだ。そこで龍馬は後藤と弥太郎の外交手腕を活用し、一戦さえチラつかせるなど政治的な戦いに持ち込んだ。決して万国公法で解決しようとしたわけではないのである。早期決着を望んでいた紀州藩は龍馬らの脅迫じみた姿勢に屈せざるを得ず、8万3千両余(のち7万両に減額)の賠償金支払いを飲んだ。これは140億円相当というとんでもない金額だ。やはり土佐人はケンカに強い。
なお近年に鞆の住民団体により海中に沈むいろは丸が発見された。幾度も海中調査が行われたのだが、龍馬の主張した小銃は、本体はおろか部品のかけらさえも、まったく見つかっていない(!)。
もちろん龍馬は幕末のヒーローであり、そのビジネスマンとしての偉業は本連載でもまた触れたいと考えているが、こうした一面もあったことは事実なのである。
■消えた140億円はどこにいったのか!?
ただし、龍馬がこの賠償金を手にすることはなかった。同年11月に紀州藩から賠償金(一部とも)が長崎で土佐商会に支払われたが、同月15日に龍馬は京・近江屋で暗殺されてしまったのである。当然、黒幕として紀州藩が疑われ、直後には海援隊士による紀州藩重臣襲撃事件も発生している。黒幕の話をすればキリがないが、紀州藩ではないことは明らかである。問題はこの7万両がどうなったか、という点だ。実は幕末維新の混乱の中で、記録が一切ないのである。
本来なら土佐藩・土佐商会から、いろは丸の持ち主でレンタル元の大洲藩に購入費相当の金額(約42000両)が支払われるはずなのだが、その形跡もない。その後数年のうちに世の中がひっくり返り、土佐藩も大洲藩も消失してしまったので、追跡しようもない事案となったのである。
一方、弥太郎は土佐商会閉鎖後に開成館大阪出張所(大阪商会)に異動した。大阪商会は藩から分離し、九十九(つくも)商会という海運業を行う私商社となり、弥太郎はそのトップとなった。廃藩置県後の明治6年(1873)に後藤の仲介で、九十九商会は土佐藩の巨額の負債を肩代わりする代わりに、商船2隻と土佐藩蔵屋敷(大阪市)を与えられた。
弥太郎は九十九商会を三菱商会と改称して、蔵屋敷跡に三菱の地盤を築いたのだが……いったい土佐藩の負債を肩代わりするほどの巨額の資金はどこから来たのか。これはいろは丸の賠償金と疑われても仕方ないし、学界でもそう見る声が支配的である。悪くいえば、龍馬が不正に得た資金が弥太郎・後藤の才覚で三菱創業の原資へ化けた可能性が大きいのだ。
その後弥太郎は政商となり、インサイダー取引で大きな利益を得たほか、西南戦争で輸送業を独占して大三菱の基盤を固めたのである。
別に弥太郎が悪い、といっているのではない。日本を代表する財閥・コンツェルンも元を辿ればこんなもの、という話である。コンプライアンスだのガバナンスだの、そういう言葉はごくごく最近できた言葉であり、こうした”不正の歴史”の上に今の日本経済が成り立っていることは噛みしめるべきだろう。
(作家=吉田龍司 『毛利元就』、『戦国城事典』(新紀元社)、『信長のM&A、黒田官兵衛のビッグデータ』(宝島社)など著書多数)
写真=桂浜に立つ坂本龍馬の銅像(高知市)。長崎で撮った有名な写真をもとに制作された。懐手にあるのは万国公法ともピストルともいわれる。